片付けるということ

明日の朝、45ℓの可燃ごみのごみ袋を2袋、マンションの外に出す。わたしが捨てることを選択した90ℓとのお別れの儀式

 

突然だけど私は片付けが苦手だ。けれど、それを上回る勢いで整っている、ということがとても好きだ。整っていると落ち着くし、好きなものだけに囲まれて生きていきたいと常日頃から思っている。けれど、刹那的(というとちょっとセンチメンタルが過ぎる)な私はその時々の気分で買い物をしたりするので、年に2回程持ち物を見直さなくてはならなくなる。「あ、こんなもの持っていた、もっと使わなくちゃあ」、「これは悲しい気持ちになる買い物だった」などと季節の代わりの目の度に部屋を見回してはそう思っていた。

けど捨てられないのだ!ほんとうに捨てるのが苦手!信じられないくらい苦手なのだ!「これは私が中学生になった時に初めて自分で選んだマフラー…これはおばあちゃんがくれた指人形にもなる手袋…」なんていう風に思い出に搦め取られては仕舞い込む。もうそれは習性に近い。

でもある日、ふと全てを捨てたくなった。その日すぐ身辺整理をするかのように部屋の中をひっくり返した。親は家を出ていきたいのではと勘ぐっていたみたいだった。自分でも理由はよくわからない。もしかしたら今までの自分から少し変わりたかったのかもしれないし、ただ何もかも嫌になったのかもしれなかった。かといって全てを捨てられるわけもなく、ひと月かかってようやく90ℓ分の何かとお別れをすることにした。

 

90ℓ分の何かの中には思い出も可能性もゴミも何もかもが詰まっていて、まるでブラックホールだ。色々な感情(に取り憑かれた物たち)が可燃ごみの袋の中で渦巻いている。明日朝、いつも通りの朝食(トーストに温めた牛乳、それとフルーツ)を摂ったら、それらとはさよならだ。

90ℓ分の何かを捨てたことで、私の生活が少し身軽になったならいい。新しいごみ袋を用意しなくちゃ、と思った。次は何とお別れするのかなんて、まだ決められないけれど。

動物としての自覚を持つということ

昨日、イタチの襟巻に出会ってしまった。立派な脚がついていて、ぴんとしたヒゲと耳を持つ、真っ黒の艶やかな毛並みの剥製の襟巻。わたしは迷うことなく購入し、夜通し愛でて、今朝着物に合わせて首に巻いて家を出た。

 通勤中、動物愛護の話をTwitterで数回見かけた。この襟巻を見て動物愛護団体の人に襲われたら怖いなと、思ってしまった。

 

動物愛護。理念は理解できるが私には縁遠い活動だと思う。わたしにとって動物は愛すべき存在だ。見ているとたまに涙が出てくる時もある、あまりに尊い。サバンナを歩く象を特集した番組を考えた人には薔薇の花束を送りたいくらいだ。けど動物愛護という活動は私には縁遠い。何故なら私は猫を飼っている。本人たちの意志とは無関係に「外に出たら危ないから」と家の中に閉じ込めている。極めてエゴイスティックな行為だ。それに鶏肉も豚肉も牛肉も魚もとても好きだ、残忍だと思いながらも美味しく頂く。供されたときは残したりしない。命を綺麗に食べることだけは忘れたくない。

 

何が言いたいかというと、わたしはたくさんの命の上になりたっているということ。猫が家の中にいなければ不安で生活もままならないし、お肉はわたしの心も体も満たしてくれる。わたしは同じ動物として動物を搾取している。なおわたしは植物もそうだと思っている節があるので、植物に対しても搾取している感覚がある。

それを辞めようったって辞められないし、辞めるなんて不自然だと思う。だって同じ動物なのだ。たまたま今は人間が優位に、より多く搾取しているようにみえるだけで、たまたま棲み分けが出来ているだけで(いい事かどうかは分からない)、関係が平等でなくても心持ちは平等であるべきだと思う。それをきちんと咀嚼した上で関わるべきだと思う。

 

けど動物愛護を叫ぶ人たちはそうではないようにみえる。動物の生活にテコ入れすること自体が動物の意思に関係ないことなのに、それが動物にとって有益であると声高に叫ぶ。エゴイスティックという点では動物愛護を叫ぶ人と、わたしとで差はないのではないか。人間だって動物だ、その他の種族を愛護するなんて片腹痛い。人間はもっと生き物としての自覚を持つべきだと思う。

 

生き物と関わるのだ、理屈じゃない。そこには感情が生まれて当然だ。動物側からも人間からも。不用意に生き物を虐げるのはよくない。けど相手の話も聞かずに自分の理論を振り翳すのも、やっぱり良くないと思うのだ。

もしわたしが自分なりの動物愛護を訴えるなら法律上、物として扱われる彼らを生き物として扱うよう進言したい。それくらいには生き物同士、死がふたりを分とうとも密接な関係でいたいのだ。

だから私は一人で暮らしてゆけない。

突然不安が降ってくる瞬間がある。それは日々が充実していようが、好きなものに囲まれていようが関係ない。そして、それは夜にやってくる(可能性が高い)。今日も例外ではなくて、ふとしたことがきっかけで愛猫の健康が心配になり、最終的には好きな人が死んでしまったらどうしようという最悪の事態を想像した。

わたしは先のことを考えるのが得意なのだけど、それは先見の明があるとかではなくて、ただただ最悪の事態を想像するのが得意なだけだ。鍵をかけ忘れたらどうしよう、泥棒が入ったらどうしよう、泥棒が武器を持っていて家にたまたま居た誰かを傷つけたらどうしよう!

極めて非現実的なのだけど、それは現実のように私に襲いかかる。背後から忍び寄ってくるから予見もできない。必死に戦うしか方法はないのだ。

だからわたしは一人で暮らしてゆけない。

今は家族と一緒だ。なので夜にそういうことが起こったら、家族の寝顔をこっそり見に行くようにしている。心易い誰かと電話をして、温かい牛乳を飲んで、ベッドで丸くなっても立ち行かなくなったら、家族の部屋を覗けばいい。比較的安心だ。すやすやと眠る3人と2匹。きっとわたしは熱を持ついきものがいないと不安で仕方がないんだろう。天涯孤独になったら、わたしはすぐさま一緒に寝てくれる誰かを探してしまうんだろうと思うくらいには大切なことなのだ。

だから一人で暮らしをしている人はすごいと思う。尊敬してしまう、拍手喝采、わたしの中の観客たちはもちろんスタンディングオベーションだ。一人暮らしの人に聞きたい。こんな夜をどうやって乗り越えるのだろう。だってひたすら耐えるわけにはいかないでしょう?コツがあるのならぜひ教えていただかなくちゃならない。(不本意ではあるが)いつかは一人で暮らさなくてはならない日が来るであろう自分のために、出来るだけの準備はしてあげたいと思うのだ。

ワインを覚えた日のこと

ついこの間、クリスマスイブにディナーへ連れていってもらった。夜ご飯ではなく、ディナー。わたしは初めてのディナーというものに戸惑いながら、あれでもないこれでもないと慎重に洋服を決めて、特別な日にだけ履く黒と赤の15センチもあるヒールを選んだ。(ヒールが苦手なわたしにとってとても勇気のいる靴だったことだけ記しておく。)

お店は木に囲まれているカフェで、サンタさんが9人手を繋いだオーナメントが可愛らしかった。
柘榴とスモークサーモンのサラダ、ズワイ蟹とチェリートマトのパスタ、牛肉を赤ワインでうんと煮たもの。出てきたお料理はどれも、見栄えよく盛り付けられていて、白いお皿は赤いテーブルクロスの上で映えてとても綺麗だった。
そのお店にはいくつかのワインがあったのたけれど、わたしはお酒に疎くどのワインが甘くて、どのワインがお肉に合うかなんてわからなかったのでひととおり頼んで飲んでみることにした。ロゼのシャンパン、白ワインの甘いもの、お肉に合わせた赤ワイン。ワインを美味しいと感じたのは多分その日が初めてだったと思う。(今までワインに不誠実だったからかもしれない。)ワイングラスは口が細くなっているので、グラスを口に近づけるとむせ返るような発酵した香りが喉を伝ってくる。驚いた。ワインとはこういう飲み物だったのだ。押し入ってくる飲み物。開かれていく感覚。

スイーツが供される頃には、わたしはすっかり酔っていたのだけれど、最後に出てきたマスカルポーネジェラートがとてつもなく美味しかったのと、大人が過ごすクリスマスイブとはこういうものだったんだ、という新鮮な気持ちだけが鮮烈に残った。

そういえば行きしなにクリスマスツリーも見た。とても綺麗だった。今まで見たどのクリスマスツリーよりもうんとうんと綺麗だった。

憧れの小箱

もうすぐクリスマスがやってくる。みんなに平等にやってくるその日は、平等にやってくるのに幸か不幸か与える感情は不平等だ。

わたしにとってクリスマスは恋人がいてもいなくても何だかちょっぴりさみしくて、ドキドキするイベントだ。さみしさの理由は簡単で、もうわたしにはサンタさんが来ないということ。無条件に降り注ぐ幸福な驚きは20歳を迎えると同時に終わってしまった。ドキドキはその時の興奮や高揚感をつい期待してしまうからだと思う。

今のわたしにとってのクリスマスは大切な人にちょっとした気持ちを伝えられる日になった。家族には珍しいチーズの詰め合わせを。ワインが好きな両親が喜んでくれるといいと思いながら、塩キャラメルのような味がするというチーズと、ちょっと贅沢なトリュフ入りの白カビのチーズ、ブルーチーズにラクレット。自分で思いついた癖に、なんて幸福な贈り物だろうと思った。嗜好品程の贅沢はない。無駄なものは無駄な分だけ贅沢に思う。

あとは迷いに迷って何人かの人にちょっとしたプレゼントを買った。選ぶ瞬間が一等楽しい。サンタさんのお手伝いをしているみたいだ。好きな人の喜ぶ顔を見るのはとても幸福。

今年はどんなことが起きるだろう。聖夜を迎える人たちに光あれ、なんて心の広いことは思えないけれど、少なくともわたしの好きな人達が幸せに過ごせる数日であるように祈っている。

箱入り娘

わたしは「箱入り娘」だと思う。

別に深窓の令嬢とかではないのだけど、高校生くらいまで、とても窮屈な生活をしていた。それこそ小さな箱に入れられて蓋をされていたようなもので、その箱には親がよいと認めた物だけが時たま入ってきた。タータンチェックのブラウスだとか、家庭用教材だとか、課題図書だとか広辞苑だとか手作りのおやつとか。

わたしはずっとその箱の中で親が良しとしたものだけを受け入れてきた。それは決して甘やかしなどではなくて、知識の制限や行動の制限、食事の制限も含まれていたので、それこそ「箱入り」と揶揄されたことが何度もあった。

大学に入り、自分で自分の箱に素敵だと思うものを箱の中に入れられるようになった。ずっと親がすべてだったわたしから見た世界は素敵なものばかりで、きらきらして見えたものはすぐさま取り入れた。まるで家を作るカラスのように。そうして出来上がった箱は色とりどりではあるけど、とにかく混乱していた。片付けもままならなかった、なぜなら蓋は閉じられたままで、親が良しとしていることが前提条件としてあったからだ。

箱の中に色んなものを無造作に入れたところで素敵な人にはなれないことに、最近気づいた。ぜんぶを成すことなど不可能に近い。綺麗な色の絵の具だってぐちゃぐちゃに混ぜてしまえば、黒のような濁った汚い色になる。今のわたしはそっくりそんな感じでとてもごちゃごちゃしている。

 

素敵な人になりたい。きちんとこころが整頓されていて、自分の世界がある人。揺れ動いても、戻ってこられる人。自分で自分を選べる人。それに今夜気づいて思わず大きなため息をついてしまった。そしてこんなことに今更気づくなんて、まだまだ人生は長いんだなと思った。

 

木曜日、友達とノリで自己啓発本を買った。淡い色のワンピースがとても似合う彼女は同じ作者の初の著書を。わたしはその作者の二冊目の著書を購入した。タイトルがとても素敵だ、なんて笑いながら。

読んだら何か変わるのかな。箱の中のわたしは期待してないなんていいつつ、すこしだけドキドキしている。

【告知】First Live!2

今日が告知解禁日。

前回も出演させて頂いた、First Live!にafter office NAVIGATERSとして出演します。

f:id:nemunemu_ko:20160911232256j:image

 ようやくのお披露目、前回よりも箱が小さいのでソールドアウトもあるかも。

取り置きはお早めに、ね。

 

もうひとつお知らせ。

同じイベントに参加するheavy&metal&pantherのボーカルも務めさせていただきます。

普段と違った姿もご覧いただけるよう頑張ります。

 

そういえばブログのタイトルを変えました。毎週更新できるといいなと思って。

今日のお茶はりんごのロシアンティ。あと楽しみにしていた耳栓が届いたよ。