動物としての自覚を持つということ

昨日、イタチの襟巻に出会ってしまった。立派な脚がついていて、ぴんとしたヒゲと耳を持つ、真っ黒の艶やかな毛並みの剥製の襟巻。わたしは迷うことなく購入し、夜通し愛でて、今朝着物に合わせて首に巻いて家を出た。

 通勤中、動物愛護の話をTwitterで数回見かけた。この襟巻を見て動物愛護団体の人に襲われたら怖いなと、思ってしまった。

 

動物愛護。理念は理解できるが私には縁遠い活動だと思う。わたしにとって動物は愛すべき存在だ。見ているとたまに涙が出てくる時もある、あまりに尊い。サバンナを歩く象を特集した番組を考えた人には薔薇の花束を送りたいくらいだ。けど動物愛護という活動は私には縁遠い。何故なら私は猫を飼っている。本人たちの意志とは無関係に「外に出たら危ないから」と家の中に閉じ込めている。極めてエゴイスティックな行為だ。それに鶏肉も豚肉も牛肉も魚もとても好きだ、残忍だと思いながらも美味しく頂く。供されたときは残したりしない。命を綺麗に食べることだけは忘れたくない。

 

何が言いたいかというと、わたしはたくさんの命の上になりたっているということ。猫が家の中にいなければ不安で生活もままならないし、お肉はわたしの心も体も満たしてくれる。わたしは同じ動物として動物を搾取している。なおわたしは植物もそうだと思っている節があるので、植物に対しても搾取している感覚がある。

それを辞めようったって辞められないし、辞めるなんて不自然だと思う。だって同じ動物なのだ。たまたま今は人間が優位に、より多く搾取しているようにみえるだけで、たまたま棲み分けが出来ているだけで(いい事かどうかは分からない)、関係が平等でなくても心持ちは平等であるべきだと思う。それをきちんと咀嚼した上で関わるべきだと思う。

 

けど動物愛護を叫ぶ人たちはそうではないようにみえる。動物の生活にテコ入れすること自体が動物の意思に関係ないことなのに、それが動物にとって有益であると声高に叫ぶ。エゴイスティックという点では動物愛護を叫ぶ人と、わたしとで差はないのではないか。人間だって動物だ、その他の種族を愛護するなんて片腹痛い。人間はもっと生き物としての自覚を持つべきだと思う。

 

生き物と関わるのだ、理屈じゃない。そこには感情が生まれて当然だ。動物側からも人間からも。不用意に生き物を虐げるのはよくない。けど相手の話も聞かずに自分の理論を振り翳すのも、やっぱり良くないと思うのだ。

もしわたしが自分なりの動物愛護を訴えるなら法律上、物として扱われる彼らを生き物として扱うよう進言したい。それくらいには生き物同士、死がふたりを分とうとも密接な関係でいたいのだ。